再録コルサコフ


 ほら、例えば僕が買ってきたこのケーキだ。僕が君のために買ってきた大きなチョコレートケーキ。
 
 僕はこのチョコレートケーキを見ている。君も見ている。甘い香りがする。だけど,僕が見ているこのケーキと君が見ているこのケーキ、それが本当に同じものだなんて言うことができると思うかい?
 
 あ、あぁ、ちょっと分かりづらかったか。だからね。君はチョコレートケーキが大好きだ。君はこのケーキをみてどんなコトを思う?美味しそう?早く食べたい?これじゃ足りないわ、小さすぎる?エトセトラエトセトラ。
 
 反対に僕はこう思う。僕は甘いモノは得意じゃない。その代わりアルコールが入った飲み物は大好きだけどね。だからこのケーキは僕にはあまり美味しそうには見えない。君が食べ終わった後余ったのをひとくちもらえればいい。僕にはこれは大きいよ。エトセトラエトセトラ。
 
 
 同じケーキに対して、僕らはこれだけ違う考えを抱いている。異なる意味を与えている。そうだよね?
 
 
 僕らは、「コレはケーキだ」と互いに理解はしている訳なんだけど、その理解というのは各々の主観でしかないわけだよ。そしてその主観というのは僕と君では著しく異なっているわけなんだ。まぁ、当然のコトと言えば当然のコトなんだけどね。
 
 だからね、繰り返して言うけれど、僕らは確かにこのチョコレートケーキという一つのものを見ている訳なんだけど、その物体としてのチョコレートケーキに与える意味はお互い全然違うわけだ。そして与えられる意味がこんなに違うモノを、「単に同じように見えるものだから」という理由だけで果たして同じものと呼んでしまっても良いのだろうか?僕らは何かを考えるときに、ものそのものよりも、そこに与えられる意味を大事にすべきなんじゃないだろうか?
 
 そう考えると僕が見ているこのケーキと君が見ているこのケーキが同じものだなんて言えないような気がしてこないか?言うべきじゃないような気がしてこないか?
 
 
 僕らは自分が見ている世界は絶対だと思っている。だけどそれを証明する手だてなんかない。100人いれば100の世界があって、100の絶対があるんだよ。だけど僕らは互いに共通の世界で生きていて、同じものを見ていると思いこんでいる。だけどそれは幻想でしかないんだ。


 「・・・幻想。じゃあ今こうやって私たちが話していることも?」


 そう。目に見える世界ですらそうなんだ。そう考えると、僕らが弄んでいる言葉なんてとても脆いモノに思えてこないかい?君と僕が同じ言葉を発したとして、それが「同じ言葉である」という理由だけで、同じ意味を持つなんてコトはあり得ないんだよ。
 
 
 「・・・じゃあ私たちは誰とも分かり合えないってことなの?」
 
 
 大丈夫。君は僕のことを好きだといってくれる。僕も君のことが好きだ。だからこんな世界でも僕と君だけは絶対に分かり合える。それくらい僕らは愛し合っているんだ。そうだろ?
 
 
 「・・・どうやらあなたの『好き』と私の『好き』じゃ、言葉に込めている意味が大きく違うみたいね」
 
 
 
 
 
 ・・・・・・・・・えっっ?